愛人[AI-REN](1)

※本記事は長く更新できない状態が続いています。申し訳ありません。
 今日からしばらくの間、田中ユタカ先生の『愛人[AI-REN]』を読むことにしようと考えています。
 果たして得をする人がいるのかという不安はあるのですが、本作の中に描かれたものをいま確認しておくことは決して無駄にならないと信じます。遠からず発売されるであろう『ミミア姫』最終巻に向けた準備としても、あるいはその向こうに続く長い道のためにも。
 進め方としては、いつものような感想文の形式ではなく、本編を1話ずつ丁寧に読みほどいていくというやり方に決めました。何かと歪んだ解釈がなされやすい作品であることを考慮した上で、できる限り誤読を避けたいという思いからです。全部で47個のエピソード、ちゃんと最後まで辿りつけるのか少しばかり不安もあるのですけれど(ただでさえ更新頻度も低いですし……)、自分にとって大切なこの作品を伝えるためにがんばってみようと決めました。
 実際の作品を読む際のガイドになるような、本を開きながら参照できるような記事を目指します。なお引用の際には(特別愛蔵版ではなく)全5巻の単行本をもとに表記します。少し冗長で面白みのない文章が続くことになるかもしれませんが、お暇ならのんびりお付き合いいただけるとうれしいです。
 それでは、よろしくお願いします。

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5M vol.04

 5月23日(日)の文学フリマにて、サークルファイブエム発行の批評誌『5M vol.04』が頒布されます。スペースはU-18とのこと。
 本号の特集は萌え4コマです。僕も作品レビューのコーナーに少し参加しています。
 また、連載枠に「弱者の癒学 第3回 孤独の円環、愛の連環」という記事を載せていただきました。田中ユタカ先生の『愛人[AI-REN]』を取り上げて、素朴なレベルでの読解を紹介しています。網羅的に精読できると良かったのですが、とりあえず今回は基礎的な作品理解の共有を目標にしました。
 各記事の内容は公式サイトにて紹介されるそうです。興味をお持ちになった方はぜひご覧ください。

晒し愛

晒し愛 (MUJIN COMICS)

晒し愛 (MUJIN COMICS)

 久しぶりの更新です。新堂エル先生の『晒し愛』について書きます。
 通例、成年コミックの性的な側面は倒錯によって支えられています。エロティックなものは個人の領域に隠されるべきだという考え方が前提にあって、たとえば性行為自体も一つの倒錯を帯びてはいるのですが、それだけでは作品の訴求力を高めるのに不十分だから別の倒錯を取り入れる必要がある。もちろん画面の見せ方や物語の作り方において個性を出すという方向もありますけど、それらは快楽装置としての役割を果たす目的からすれば遠回りにしかならないので、制度に乗せて倒錯を重ねた方がよほど効率的に色っぽいものを表現できるわけです。
 成年向け作品に頻見されるアブノーマルな関係・行為も、たいがい性的アピールの強化に充てられていると考えていいでしょう。近親相姦にせよ寝取られにせよ、ジャンル化した倒錯はもはや単なる快楽誘導路なのであって、道徳的な枠組みを捉え直すために描かれるような例はほとんどないからです(この記述が批判や皮肉の意図を持つものでないことは、念のため付け加えておきます)。
 本作『晒し愛』は、倒錯の扱いが非常に上手い作品です。具体的にはいわゆるアヘ顔と衆人環視の露出プレイとをアピールの中心に置いているのですが、すっきり可愛らしい普段の表情と性描写における品のなさ(貶し言葉ではありません)との落差や、あるいは行為の状況の過激さなど、読者の煽情に役立つ表現を選びつつ、しかもそれらを純愛の外郭に沿うような形で見せているのが印象的でした。
 ただ、構造において純愛らしく装っても厳密にはかなり違いがあることを断っておかねばなりません。作品解説に「いかに純愛を歪ませるかが自分の話作りの目標」と書かれている通り、『晒し愛』の掲載作は全て和姦でありながら状況自体に倒錯を含むものが多く(露出や複数姦など)、はっきりノーマルだと言えるのは「バリアフリー」の一作のみです。こうした点からは、新堂エル先生が心を繋ぐような触れ合いよりも感覚的な享楽の表現の方に目を向けていたことがわかるでしょう。
 表題作「晒し愛」の第2話において寝取られ作品のフォーマットが反転的に利用されている(ヒロインの被所有告白の場面)ことも、上述の内容を補強してくれます。官能にまみれながら身体の繋がりを恋い求める関係の中にあって、はじめに存在したはずの淡い好意は半ば無視されたまま、どこにも拠り所を見つけることができません。ありふれた純愛と言うより、あるいは歪んだ純愛と言うよりも、寝取られるべき相手に寝取られる寝取られ作品だと言った方がむしろ正確ではないかと思えるくらいです。性的な視線が先に立つと、しばしばこのような倒錯が生じるわけです。
 しかしながら、肉体的な快楽に囚われている(少なくともそのように見える)ヒロインが実際には普段の人格を全く損なわれていなかったという点において、本作は極めて巧妙だったと言うことができます。第1話の「違う人格になってるみたいなものだから」という台詞が、物語の最後までずっと作用し続けている。だから、第4話に描かれるヒロインの姿は魂の壊れてしまった可哀そうな人と容易に重なるのだけれども、それは彼女のただ一面にすぎないのであって、なんだかんだ言ってもちゃんと幸せになれるだろうという無根拠の確信が消えることはないのです。

このはな(1)

このはな 1 (チャンピオンREDコミックス)

このはな 1 (チャンピオンREDコミックス)

 松本ドリル研究所先生の『このはな』。「チャンピオンREDいちご」で連載中の一般向け作品です。
 小さくて可愛くて妄想癖のある小学五年生の女の子・萩原祐佳理と、きれいで強くて優しくて胸の大きい地球防衛軍のお姉さん・天海恵理子が、巨大ロボットに乗って未知なる敵と戦う百合ラブコメロボットアクション……書いているうちに自信なくなってきましたけど、こんな感じだと思います。
 とにかく勢いがあって、作品世界に引きずり込まれるような印象を受けました。コマ割りによる緩急の付け方はとても的確だし、画面の見せ方もかなり大胆にやっている感じで、絵を見ているだけでも非常に迫力があります。そこにロボットや敵勢力などといった設定が詰め込まれてくるのですが、登場人物の性格付けとその演出(会話の取捨選択や心情の描き方など)がしっかり安定しているため、情報が断片的に圧縮されていても読みやすく、また、祐佳理の妄想による脱線を各所に挟みながらも物語の疾走感を常に維持しているところは、さすがに見事と言うほかありません。
 一般向けとしてはやや過激な性描写を含んでいて、どうしてもその点に注目が集まってしまうので、何かと槍玉に挙げられやすい作品ではあるようです。もちろんこれは仕方のないことなのですが(公共の場で性的なものと遭遇したときに落ち着いた反応を返すことは難しいからです)、だからと言って、『このはな』がただ挑戦的・挑発的なだけの作品として読まれるのは、もったいないと思います。
 たとえば、本作の主人公である祐佳理は、ことあるごとにエッチな妄想を炸裂させているのですが、それはあくまで彼女の一面的な性質にすぎません。ドジで不器用だけど責任感が強く、クラスメイトからも慕われていて、でもそのことを「みんなにからかわれてるんだ」と誤解したり、そういう自分を変えたいと思い、大人の女性に憧れるような、そんな祐佳理の姿は、過剰にデフォルメされてはいるけれども、それでも等身大の小学生の女の子として、物語の中にあるからです。
 また、本作では百合が物語を駆動するエネルギーとして重要な位置を占めています。特に祐佳理と天海の結びつきは、かなり珍しい描き方をされていて、かつ、特権的に扱われている。と言うのも、二人は、運命的な出会いを果たしたところから、普通の恋愛作品に見られるような紆余曲折を跳び越えて、一気に性交渉を持つ段階まで到達している(しかもそれが明確に描かれる)だけでなく、戦争という、どうしようもない世界の意思が渦巻く場所にあって、大切な人を好きであり続けることこそを第一とし、ときに死ぬことさえも愛と気合でどうにかするという、きわめて強く潔く頼もしい一面を見せているのです。
 個人的には、第一話に描かれた天海の独白や、第五話での祐佳理の姿がとても印象的でした。変に格好つけたり、気持ちを隠したりせず、率直でわかりやすいのも魅力の一つだと思います。世間の風当たりなど障害の多い部分もあるかと思いますが、これからも本作がたくさんの人に読まれ、愛され、しっかりと歩みを進めていってくれることを切に願います。

お知らせ

 本年もよろしくお願いいたします。新年早々風邪をひいてしまいました。寒い日が続いていますので、皆さんもお身体には十分にご配慮ください。
 年が明けたので、というわけでもないのですが、この度、過去の記事を少しずつ編集・整理していこうと考えています。
 これまで、過去の記事に手を入れることは極力避けてきました。自分の言葉には責任を持つべきですから、それは当然のことなのですが、けれど最近はブログを始めたころに比べると作品の捉え方も変わってきましたし、古い記事には反省点が多いと感じていることも事実です。そういう記事に「これは昔書いたものですから」とは言い訳したくないという思いが、いまは強くなっています。
 何より、記事の中で取り上げている作品と作家さんに対して心から誠実であるためには、それぞれの記事を、いまの自分から見て一番いい状態にしておくことが最善だと考えました。なにとぞ、ご理解をいただければ幸いです。

ずっと一緒に

ずっと一緒に (MUJIN COMICS)

ずっと一緒に (MUJIN COMICS)

 かつて、悲しく切ない恋物語がもてはやされ、広く人気を得ていた時期がありました。
 その現象は、純愛ブームと呼ばれていました。『世界の中心で、愛をさけぶ』に代表されるような諸々の作品が流行し、映画や小説、その他さまざまな分野において、悲しい恋の物語がたくさん作られた頃のことです。むろん、いまでもそういう作品を歓迎する風潮は失われていません。
 悲しい恋の物語は、作品の登場人物が幸せになることを許しませんでした。報われない恋を通して読者を感動させるために、そしてそれを効率よく行うためには、誰かを死なせるのが一番の近道であると知ってしまったからです。
 その結果、たくさんの……本当にたくさんの人々が、私たちの涙のために亡くなりました。ある人は不治の病によってささやかな恋を砕かれ、またある人は、突然の事故で最愛の人を喪いました。戦争のさなか、恋人のもとを遠く離れて地に斃れた人もいます。みんな、私たちの望み次第ではもっと幸せになることができたかもしれない人たちです。純愛と呼ばれたものを作るために消費され、犠牲になった人たちです。
 私たちは、彼らを襲った抗いがたく獰猛な世界の力を運命と呼びました(その力を促したのは私たち自身なのですが、課されるべき責任は分散されて、強く意識することは難しくなっています)。本来、悲しい恋の物語は、運命に翻弄される恋人たちの姿を通して読者の心を抉り貫くものでした。目を背けたくなるような物語の中から、かろうじて世界に対する鋭いまなざしを拾い上げることができる、そういうもののはずだったのです。
 けれど、私たちに投げつけられた悲恋は、その多くが読者の手によって、ありがたい贈りものへと変えられてしまいました。これは、作品に触れた人の心を守るためには仕方のないことだったのかもしれませんが、それでも、幸せを奪われた人たちの姿を慰みもののように扱うのがどういうことなのか、私たちは知っておくべきです。少なくとも、私はそう思います。
 笹川ハヤシ先生の『ずっと一緒に』。
 この本の中に、「初恋」という作品があります。描き上がるまでに一年半以上を要したというその物語は、人々の魂を集める死神の少女と、病により余命わずかと診断された男性をめぐる、42ページのお話です。
 この作品には、二重の悲恋が織り込まれています。病気によって大切な人を喪うという物語が二つ、少女と男性を取り囲むように置かれていて、二人には、幸せな過去も、幸せな未来もなく、ただ、少しだけ満ち足りた「いま」と、どこまでも続く寂しさがあるだけでした。それが、この作品に描かれていた世界です。
 しかし、この「初恋」という作品は、そこで物語が終わってしまうことを認めませんでした。悲恋のままに閉じられてしまうことを許しませんでした。それどころか、一度は否定された少女と男性の幸せを回復するために、悲恋を「なかったこと」にしようと駄々をこねたのです。
 その結果、すでに決定されていた世界を一旦リセットし、全てが都合よく解決された新しい世界に組み直す、ということが起きました。二人を引き裂くはずだった病気は克服されて、死による悲しい別れが横たわっていた作品の最後の場面には、穏やかで平凡な日常を生きる家族の姿が代わって飾られることになりました。ありえることのなかった幸せが、そこに実現したのです。
 幼く、わがままで、それゆえに運命をも屈伏させたその力は、奇跡と呼ばれました。
 もう一つ、「ヒトミ桜唇」という作品を見ておきます。これは幼なじみのカップルを中心にした短編ですが、作品の最後の数ページに描かれているバイク事故のエピソードは、それまでの日常的な恋愛物語の部分とは切り離された位置にありながら、作品全体を一気に悲恋へと引き寄せる効果を持っており、これによって、にわかに読者の不安を煽る展開となっています。
 けれど、その方向性は次のページできっぱりと否定され、幸せな未来を予感させる終わり方に落ち着きました。一見すると悲しい恋の物語を取り入れたようなこの作品は、それをあくまで蛇足的に扱い、そして反転させることにより、かえって悲恋に強く反抗する意識を含むようになったのでした。
「初恋」と「ヒトミ桜唇」、どちらにも言えることは、それらが悲恋の存在を最初から無視するような作品ではなかったということです。そうではなくて、むしろ悲恋の雰囲気をうまく操作し、読者に悲しい恋の悲しさを印象づけることで、幸せな恋の多幸感を間接的に強化したのだと言うことができるでしょう。この過程を経ることによって、彼らの幸せは、よりわかりやすく、伝わりやすくなったと思います。
 そこに描かれた幸せのあり方は、もしかしたら、安っぽいと笑われるかもしれません。もしかしたら、現実を見ろと諭されるかもしれません。それでも、価値ある作品を描くために悲恋が持ち込まれて彼らの幸せが食い潰されるくらいなら、私は、世界を日常で満たすことのできるご都合主義の方にこそ、心からの拍手を送りたいと思います。

さよなら、おっぱい

さよなら、おっぱい (ホットミルクコミックス 302)

さよなら、おっぱい (ホットミルクコミックス 302)

 性的なものを性的な度合いにおいて評価するのは、そんなに難しいことではありません。それが自分にとって「どれほど気持ちいいものであるか」だけ考えればいいからです。人それぞれに好みの違いがあるのは当然ですが、各個人がどのレベルで性的な魅力を感じるかについてはある程度機械的に判断することができます。
 たとえば、女性の胸なら大きさ・形・柔らかさ・感度などが評価の基準になるわけですし、男性性器の場合も大きさ・形・硬さ・持久力などを組み合わせていけば好みのものを設定することができるでしょう。そしてここで重要なのは、いま挙げたような性的なものの要素が他人のものと容易に比較できてしまうこと、「こっちの方がいい」と言えてしまうことです。
 つまり、享受者の欲求をよりよく満たしてくれるものほど性的に(ひいては生物として)優れているということになる。非純愛系の作品にしばしば応用されるこの考え方は、一面的には確かに否定しがたい事実としてあります。
 青木幹治先生の『さよなら、おっぱい』において特徴的なのは、本書がスレンダーな女性を前面に押し出した作品集でありながら、「女性の胸は大きい方が性的で魅力的だ」という評価を採用していることです。
 この本に登場するヒロインは、その多くがほっそりした身体つきをしていて、外見的に文句なく美しいのですが、作中での扱いを見る限りだと、彼女たちはそのスレンダーな体型ゆえに美しいのではなく、胸は小さい「けれども」美しい女性として、物語の中に身を置いているようでした。特に収録作の「お姉ちゃんの手を取って」や「ぺたり」のヒロインは自分の胸にコンプレックスを抱いていて、相手役の男性も「その小さな胸こそがいいんだ」という主張まではしてくれません。
 しかしながら、彼女たちの体型にネガティブな役割を与えたことで、これらの作品はむしろヒロインの人間らしさの演出として機能するようになっています。以前の記事でヒロインが神性を備えた例というのを紹介していますが、今回は逆にヒロインの方に欠点を持たせることで男性のところまで下ろし、よって背丈の同じ恋愛を可能にしているわけです(おそらく言うまでもないことですが、この「欠点」というのは見せかけにすぎません)。これは、作品が性的なものと同値で結びつくのを防ぐことにも役立っています。
 だからこそ、この本全体を覆っている純粋で不思議でまっすぐな恋愛のあり方も、独特で軽妙な言葉遣いも、女性の胸へのこだわりも、むやみにファンタジーへと踏み込むことなく、かと言って身近になりすぎるわけでもなく、手を伸ばせばあるいは触れられそうなくらいの微妙な距離感でもって、この場所にあるのだと思います。比較と交換に揺さぶられる段階をクリアした恋愛がどれくらい幸せなものであるか、ここでわざわざ繰り返す必要はもうないでしょう。